トマトの赤色は健康の赤色

「fallout4」をやっていたらグラボの、たぶん電源部分が壊れてしまったみたいで、負荷が掛かるとクラッシュするようになってしまいました。

まぁ、クーラー取り外して簡易水冷化したり静音化のためファンを減らしたり酷使してきましたから、寿命ではあったのでしょうが、許さんぞBethesdaぁ・・・

 

 

本日10月10日、今年は世間様で「体育の日」という祝日だと言われていますが、本当は「トマトの日」という世界規模のお祭りの日だからお休みなんですよ。常識ですね。

 

もっかい書いておこう。

 

「トマトの日」だからお休みなんですよ。

 

 

もともとトマトは日本だとそれほど長い歴史のある食物ではなく、食用として料理に用いられ始めたのは明治頃。

 

今でこそ調理のしやすさ、栄養価の高さ、種類の多さ、そして一年中採れることから年中トマトを美味しく食べている日本ですが、江戸時代に輸入されていた頃は観賞用として「赤茄子」なんて呼ばれていました。

 

今では赤い色の食べ物は普通ですけど、昔は赤い色のお野菜というと食べるのに躊躇される色だったそうですよ。赤ピーマンも無かったのかなぁ・・・

 

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そういえば現代でも赤い色のお野菜って、あんまり無いかも??

赤カブ、唐辛子、、、、緑色とか白色に比べたら圧倒的に少ないですよね。

もうちょっとあってもいいような気がしますけどね。意外と少ない。

どんでん返しの奥の奥

 

「お腹を壊す」という言葉はお腹の調子が悪くなった状態を言いますが、それならなぜ「頭を壊す」や「目を壊す」という言葉は使われないのでしょう。

手足に対しては「肘や膝を壊す」とスポーツ選手に対して使われていますが、お腹や手足以外の部分が悪くなったとき、「壊す」という表現は使われないですよね。どういう判定基準によって僕らは言葉を使い分けているのでしょうか。不思議だなぁ。

 

 

ミステリーやサスペンス小説を読み終えて、「この作者にマジックの知識や経験があったら(マジックを構成して実演できれば)凄いマジックを作りそうだな」と思う時があります。

 

ピエール・ルメートルの小説を読み終えた後にはこう感じました。
「あぁ、これは高木重朗先生のソリッドカップだな」

 

「悲しみのイレーヌ」、「その女アレックス」

 

あまりに衝撃的な内容だけに人に話したくなりますが、ネタバレや残忍な描写を忌避してうまく説明できない、そんな2冊。

 

「悲しみのイレーヌ」も「その女アレックス」も、ある残忍な事件を追っている「カミーユ・ヴェルーヴェン警部」が主人公。

主人公たち捜査チームは、ある凶悪な事件の捜査中、過去の未解決事件との共通点があることに気づき、それらの事件が一本の糸で繋がったとき衝撃的な結末に進んで行ってしまう、というストーリーなのですが、このように書くと割と普通な展開に思えます。

というより、これ以上説明すると根本的な部分のネタバレになってしまうので、このようにしか説明できない内容でもあるのです。

 

「悲しみのイレーヌ」も「その女アレックス」も物語の終盤で、ある衝撃の事実が判明します。ソリッドカップだったわけです。

じゃあこれまで読んできたものは一体何だったのだろう、と思いつつページをめくると、さらに衝撃の内容が待ち構えています。2段構えの、なんというか容赦なく読み手を攻撃する構成に鳥肌が立ってしまいます。

物語が進むうちに登場人物の行動や目的が判明していきますが、新たな事実が提供されるたびに読み手が翻弄され、衝撃の結末へ一気に落ちていきます。

 

「どんでん返し」という言葉がありますけど、使い方によってはそれまでの構成を台無しにして不条理な結末になってしまいます。

マジックの場合は最後に不条理なフィニッシュをもってこようが、そもそも、それまでの現象自体が不条理なものですから、よっぽどの無茶をしなければ「あー凄かった」で終われますけど、この小説の場合どんでん返しの後にもう一つ山場があり、その結末は何とも後味が悪く、誰も幸せにならない。

 

でも凄いものを読み終えた、という充実感は確かにあり、それがなんとも気持ちの悪い気分にさせてくれます。

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そんなことを考えているうちに夜が更けていった。

アレックスはちびり、またちびりとウイスキーをなめながら、結局のところずいぶん泣いた。まだこんなに涙が残っていたのかと驚くくらい、いくらでも泣けた。

なぜならそれは、あまりにも孤独な夜だったから。

 

omnibus

 

・・・・

・・・ッハ!?

 

Fallout4 に夢中になっていたら前回の記事からこんなにも経ってしまっていた。。。。

おのれぇぇ・・Bethesdaぁぁ、、、、

 

ロシアかどこかで、このゲームが面白すぎて仕事が手に付かずクビになった人が開発メーカーを訴えたそうですが、あのニュースはどうなったのやら。

 

「Etranger」

koudaiさんのウェブサイトと相互リンクをさせて頂きました。

 

Etranger

 

これでまたマジックとトマトとトマト、あとはトマトが好きなマジシャンが増えるってなもんですぜ、うへ、うへへへへへ・・・・

 

koudaiさんは現在オリジナルのガフコインや作品集を販売するなどご活躍されているマジシャンです。

僕がこの方を知ったのは今回のリンクではなく、何年も前に偶々Youtubeで観たコインマジックが印象的で、少し以前のサイトを拝見しておりました。

その時はコインモノの販売を既にされていまして、オリジナルのコインを購入しようか悩みましたね。

 

ちなみに印象的だった動画は以下のもの。

 




 

スプーンを使ったシリンダー&コインなのですが、綺麗なストーリーに仕上がっていて良いマジックだなと思いました。

銀に輝くコインを液体に見立ててスプーンですくう・入れる、という行為を行っていますが綺麗ですよね。ただ、消す・出る、以上のメッセージ性があるように感じられます。

クレジットがちゃんと入っているのもコインを勉強したい人にとっては嬉しいですよね。

僕はカードの動画が多いのですが、koudaiさんはコインがメインのようで。コイン上手い人の動画は何でも参考になります。

 

 

「Windows10」

僕もついにWindows10にアップグレードしました。

これで僕も現代っ子ですよ。

 

古いパーツを集めて一つデスクトップを組んだのですが、まぁせっかくだからと10を入れ、やっと慣れてきたように思えたので、メインのデスクトップも7から10にアップグレードとなりました。

ただ細かいところで「あれ?あの操作はどうやるんだろう」と悩むことがしばしば。

アップグレードの広告が出なくなってうれしいですが、操作の快適性でいうとプラマイゼロくらいでしょうかね。

 

 

「もうちょっと捻りたかったけどまぁいいや的な感じに撮ったった」

ホフジンサーチェンジってシチュエーションが合えばすごく使いやすいチェンジ技法だと思います。

 

よく言えばダイレクトな動きなので失敗しませんし。

 

と思ってましたけど、いつぞや、この動きで1枚をチェンジしようとしたところ、手に残っているのは何故か2枚。

 

おやおや、何故かしら?

 

手に持った1枚と、デックトップの2枚をチェンジしたわけですが、要は2枚のカードが汗でくっ付いていたのです。

最近また急に蒸し暑くなってきましたから、汗でベトベト。カードもベトベト。トップカードを押し出したら2枚出てきちゃったのです。

 

でも2枚くっ付いたままチェンジできるというのもこの技法の良いところだと思いましたので、その場で思いついた簡単な手順を撮りました。

 




 

もうちょっと凝ったナニカを作れると思うので、とりあえずメモ的な動画ですが、ノンマジシャン向けだと4枚のエースで行う「ラスト・トリック」的な裏切りがイイんじゃないでしょうかね。自画自賛ね。

 

ただデックを持っている理由が特にないかなぁ。「それをする理由」って大事。

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「マジック」という芸能におけるコインを消すことの意義について

 

お久しぶりです。

 

僕のVRPCからこのブログへ4月1日だけアクセスできるようになってから4回目のエントリーになりますね。初めましての人もいるかな?今日だけ一時的にこのブログは僕の物になってます。

 

僕らの時代(君たちからすれば600年程先の未来)では既に「マジック」という芸能が成り立たなくなっていることは前回のエントリーで説明しました。

 

何故かというと既に限定的な未来予知は可能だし、テレポーテーションレビテーションなんて400年前に(君たちからすれば200年先の出来事だけど)実用化されているし、そもそも電脳化がほぼ義務付けられてから生活の大半が仮想現実の中だからね。

 

基本的に人間が想像できる事で、出来ないことなんてもう無いのだ。

 

ただ、それでも文学や映画、スポーツなどの娯楽は根強く残っているけどね。

未だに紙の本が出版されていて(とってもお高い!)、それを購入する人がいるなんて信じられるかい?

 

あ、いや、でも2016年だとまだ紙媒体はいくらか残っているのかな?

 

とにかくそんな状況だから、ここへアクセスしたときに、このブログ主が「マジック」好きだと知ってとても驚いた!

 

なにせ、僕らにとっては歩行や呼吸に等しい事を、さも不可思議な現象のように見せて(しかもその仕組みを隠しながら!)、それがひとつの芸能として成り立っているんだから。

 

 

これはとても不思議なことだ。

 

なので、この時代の「マジック」という芸能について少しだけ僕なりに調べてみたんだ。

 

 

どうもYouTubeという、動画をみんなで共有するサービスでは「マジック」と単語検索をすると沢山の動画が出てくるようだね。このブログ主も利用しているみたいだから、とりあえずそこで調べてみた。

 

 

あぁ、ちなみに少し話しが逸れるけど、この動画サービスでは個人が撮影したものもあれば、テレビジョンのショーを録画して、それをさらにアップロードして共有しているものもあるね。

 

テレビジョンというモノは歴史の教科書で学んだから知っているんだ。顔や名前が世に広く知られているタレントという職業人や専門知識を持つ知識人が、様々な情報や娯楽を映像を通じて提供するサービス媒体のことだろ?

 

この映像サービスをわざわざ録画して、さらにそれを適切な動画ファイルに加工してからアップロードする事もあるようだけど、それって凄くナンセンスだ!

何故最初からこのYouTubeというサービスでテレビジョンのショーをやらないんだい?「マジック」よりも不思議だね!

 

まぁいいや。

とりあえずその「マジック」の動画を色々と観て僕が疑問に感じたのはずばりコレだ。

 

なぜそんな難しそうな技術を使ってまでコインを消すのだろうか。

 

正直に言うと「マジック」を調べている過程でマジシャンという職業の人物がコインを消すのを観て笑ってしまったのだ。

だって手の中の物質を消したように見せるのなら、TPデバイスを使って一時的に次元収納へ入れてしまえばいいのだからね。

あるいはLLデバイスで周囲の状況に合わせて光反射を変えて透明化すればいい。

極端な話、「消したように」見せなくてもいい。DSデバイスで「消して」しまえば済む。

 

でもこの時代の人はコインをひとつ消すのにとても難しそうな技術を使っているように見えるし、消し方だけでなく、移動したように見せたり、切ったものを復元させたりしている。

 

そもそも僕らからすると「コインを消す」という行為に何ら意味を見出せない。

相手の選んだ札をもう一度取り出したからといって、それが何になる。

切った人体を元通りにする?体を浮かせる?ガラスを貫通する?

どれもこれも、今ではその辺の小学生でも出来てしまう。

 

 

と、ここまで考えて、僕は技術の差異が生む価値観の違いに気付いた。

 

僕らからすれば容易に可能な現象でも、その技術を持たない場合はそれが不可思議な現象に見えるのだ。

 

もしかすると君らも、君らの時代からはるか昔の人々の研究や天災への意識に対して「なんでこんな事に驚いていたのだろう」といった感情を持ったことがあるのかもしれない。

 

科学技術の進歩と「マジック」という芸能の価値を一緒に考えてはいけないのかもしれない。

 

つまりこの「マジック」という行為は、一見すると不合理な事を行っているように見える。(というか多分そうだろう。だって科学技術を使えばそれなりに簡単な現象だろうしね)

でもその行為の際に、科学技術を使わない。あえて使わない。

 

使わない、という大きな制約をあえて設けることで、そこにひとつの楽しみや深みが生まれるのではないだろうか。

 

将棋や囲碁において、僕らの時代では人工知能リーグ(実は「人工」はもはや差別用語なんだよね)と人間のリーグは別物になっている。

勝てる勝てないのレベルはとっくの昔に過ぎてしまって、もはや人間が人工知能やそれに作られたデバイスに包まれて生活しているようなものだからね。

 

でも相変わらず人間同士の頭脳一本の戦いは続いている。

何より人間には揺らぎがあるからね。それが思わぬミスを生むし、奇跡を生むし、そこにひとつのドラマが生まれる。

 

だから僕らはそれを観ていて「面白い!」、と感じる。

 

そう思いながらマジックを観てみると、なるほど、確かに「面白い」かもしれないと感じた。

僕が感じた「面白い」が、君たちと同じ感覚なのかは分からないけど、つまりマジックという芸能は、技術や「それを行う意味」とまた少し違う価値観を生んでいるように思えるのだ。

 

 

そもそもの話し、難しい技術を用いてそれを行う意義があるのだろうか。

 

 

僕はその不合理な行為に非常に興味を惹かれてしまったのだ。

 

たとえば、どうしても邪魔なものを一時的に消して後で元通りに復元しておく、という行為であれば、消したり出したり復活させたり、という行為も理解できる。

 

だけど「マジック」には理由がない。

 

何故、コインを消すのか。

 

何故、相手の覚えた札をもう一度取り出すのか。

 

そのもの結果を求めるだけなら、それを可能にする技術はすでにあるはずだと思うのだ。(・・・あるよね?)

 

 

ならば何故そういった技術を使わずに、あえてアナログなテクニックを用いて達成しているのだろうか。

 

 

先に述べたとおり、今でも映画は娯楽の一つとして残っている。

そちらの時代ではまだ画面の中の映像娯楽のようだけど、こちらでは自分が指定したキャラクターの立場で参加できる。もちろんヴァーチャルの中で。

 

そちらでいう映画とは少し違うかもしれないけれど、今でも「映画」は娯楽の一つとして確立している。それは今の自分とは違う立場、人生、思考、そういったものを一時的に体験出来るからに他ならない。

 

それが「面白い」からに他ならない。

 

ちなみに何百年も前の映画も記録映像として残っているし、「マジック」を調べる過程でひとつの映画を見つけた。

その映画のなかでは、旧時代の夜会用紳士服を着込んだ男性がトランプという娯楽用紙製品やハンカチーフを操りながら、なんとハトを出現させていたのだ。

 

なぜ、ハトなのだ?食べるためだろうか。

 

いや違う。

 

彼は、通常はハンカチから取り出すことのできない(当時は僕らの使うデバイスやその類似品は存在しないからね)ハトという生物を何羽も出現させることによって、一種幻想的な雰囲気と、奇妙で、だけども心地よい「面白さ」を演出しているのだ。

 

そこに「何故ハンカチからハトを取り出すのか」という疑問に対する合理的な理由は見られない。

だがその醸し出す雰囲気は確かに魅力的に映る。

 

 

なぜやっているのか、をすっ飛ばして

どうやっているのだろうか、を意識させている。

 

 

つまり、未知の体験だ。

つまり、夢の体験だ。

その時代の人間が思う夢を見せているのだ。

 

そう僕は解釈した。

 

夢というのは不合理・不条理なもの。

 

もちろん僕らの時代では夢も自由に観ることができるけど(厳しい規制でガッチリだけどね!)、普段の常識とは異なる場面に自分がいる、観ている、体験している、そういう事はやはり「面白い」のだ。(だからディズニーのランドであのネズミがいまだに踊っているわけだな)

 

 

人間は夢や希望、つまりポジティブな未知の体験を望んでいるし、それがなければ生きていけない。

だからこそ、僕らの時代でも未来予知は一定の範囲までに限定されているんだけどね。つまりすべて分かってしまったらポジティブな未知の体験は出来なくなってしまう。

それは「楽しむことの死」であると僕らの時代では考えられているんだ。

 

それに当てはめると、なるほど、確かに「マジック」は娯楽として成り立っている。

 

僕らが仮想現実の世界で作り出して体験している娯楽を、この時代の君たちはあくまでもアナログな手先の技術のみで提供しているということになる。

 

提供する形は違えど、人間はいつの時代でも夢や未知の体験を望んでいる。

 

それを提供することのできる娯楽の一つが、この時代の「マジック」であったのだろう。

 

人に夢や未知を体験させる、それこそが「マジック」という娯楽の意義である。

 

そう僕は結論した。

この結果、この時代のみんなにはどのように感じられるだろうか。

 

 

さて、残念ながら僕がこのブログにアクセスできるのは4月1日だけだから、みんなの反応を窺うことは出来そうにない。

だけど2015年の前回のエントリーでもらったコメントに対して、調査の結果をお知らせしておこうかな。

 

コメント:

「5月の天皇杯の優勝馬を教えてください。出来るだけ早く!」

 

えーと、これに対するアンサーは「ゴールドシップ」です。これでいいのかな?

 

一応書き残しておくけど、未来の情報を過去に伝えるには色々な規制があるんですな。伝えられる情報の種類によって手数料も掛かります。

 

今回は62bも掛かりましたんで、ここのブログ主に請求しときます。今の日本円にすると大体41億円くらいかな。

 

じゃ、今年のエントリーはここまで。また来年!

 

 

追記:

このエントリーを送信した直後、僕の祖父がこんなことを言い出した。

なんでも僕らのご先祖様、ある日突然そこそこの借金を背負ったそうで。それを6世紀先の子孫まで伝えよ、と先祖代々伝わっているらしい。

昨日まで何も言ってなかったのにいきなりじいちゃんが言い出したのでびっくりしました。

・・・まさかね。

 

 

いってきます

 

鹿児島へ。

 

トンカツ豚しゃぶ食べるぞ~